たからじぇんぬの作り方
当時と同じ看板
本来文化祭は、卒業試験を経てその席次から構成を組まれ2~3週間の稽古をして行われます。
ところが・・・
私達81期生41名の卒業試験は1995年1月17日。
阪神大震災のまさにその日だったのです。
阪神大震災
私は試験当日だったので、お稽古する教室を取る為に朝5時に起きていました。
遠くから聞こえる地鳴りの音が次第に近くなり、あっという間に物凄い揺れになりました。
何が起きているのか・・・ただただ怖かったのを憶えています。
揺れが治まり、慌ててロビーに集まりました。
寮の被害は殆ど無かった為、そのときまでは平気でしたし、試験はあると思っていました。
外がどうなっているのかを知るまでは・・・
暫く経って、情報が入るにつれ、未曾有の災害であることが解りました。
テレビに映る無残に壊れた三宮のビル、崩落した伊丹駅、横倒れの阪神高速・・・
え?これ何??どうなってるの???
現実として受け止められずただただぼんやりと映像をみつめていました。
そして、余震に怯えつつ皆で固まって一日過ごした後、卒業試験の中止と寮生の帰省が決まりました。
そのとき見た光景は・・・信じられないものでした。
宝塚南口サンビオラの窓が全部割れ道路にキラキラ散らばっていました。
花の道が割れ、近隣の店が崩壊していました。
見たことも考えたこともないような、景色。
夢であって欲しいと思いながら、寮外生達の安否を思いながら、宝塚から伊丹空港までの道のりを必死で歩いたのを憶えています。
どうなる?私達・・・
実家に戻り状況が落ち着いてくるにつれ、
『81期は文化祭無し』『81期は初舞台無し』『81期の初舞台は下の期と一緒』『宝塚歌劇団1年休業』・・・色んな情報が錯綜しました。
自分達がどうなるのか見当もつかない。
早く戻りたい!
でも・・・あの状況で舞台ができるのか?
舞台がしたいなんて言っていいのか?
物凄い葛藤がありました。
そんな中で、そんなときだからこそ復旧しようということになり・・・
1週間後、呼び戻され卒業試験を行いました。
そして・・・
文化祭がドラマシティ(梅田)に場所を変え、予定通り行われることが決まったのです。
配役が発表されたのは本番の1週間前でした。
出来るのか?!文化祭?!
ここを走って帰りました
朝から晩までとにかく振りを憶えて台詞を憶えて自主稽古してまだ寮の水が出ていなかったので寮生はギリギリまでお稽古した後、宝塚ホテルさん、宝塚ワシントンホテルさん、宝塚レディースインさんに走って行き、お風呂をお借りしまた寮に走って帰るという生活を送りました。
どうやって過ごしていたのか・・・実は記憶があんまりありません。
同期に聞いても、皆そう言います。
ただ当時の手帳に[7時 講堂 タップ]とか書いてあるので・・・やったのでしょう。
舞台に立てる喜びとか緊張とかそういうものは一切無く、無事4回公演を終えることができるのか?!ただそれだけだったように思います。
沢山の方のお陰で・・・
幕は、開きました。
今観ると・・・もう勘弁して欲しいほどヘタです_| ̄|○
でも、舞台未経験81期41名―必死で夢中で1週間で形にした舞台です。
初日―カーテンコールで委員の子が代表して挨拶をしたとき
「私達81期生は、あと1週間で卒業し・・・」卒業できるのっ?!Σ(゜Д゜;)
「3月星組公演で初舞台を踏ませていただきます!」初舞台踏めるのっ?!Σ(゜Д゜ノ)ノ
あまりに無我夢中でその先など考える余裕もなかったので、舞台上で心底驚いたのを今でも憶えています。
そして全4公演を終えた千秋楽。
81期41名は泣いています。
41名が必死で夢中で1週間で形にした舞台!
そしてこの状況の中、観にきてくださった観客の温かい拍手!!
卒業できる!!!
初舞台が踏める!!!!
舞台に立てる!!!!!
色んな想いが溢れ出て泣いています。
この経験があったからなのか、我が81期は、いやに結束が固いです。
一番しんどいとき、苦しいとき・・・一緒に頑張った仲間だからでしょうか。
当時は自分たちのことにいっぱいいっぱいで、そこまで気が回らなかったのですが・・・
あの災害時に、舞台を再開するということは物凄く大変なことだったと思います。
ご尽力くださいました全ての皆様に・・・
僭越ながら期を代表致しまして・・・
本当に、本当に、有難う御座いましたm(_ _)m
以上、私達の文化祭編でした(´∀`;A )
ではまた次回!
右京
元宝塚歌劇団宙組 貴羽右京
1995年『国境のない地図』で初舞台、同年花組に配属
1998年 宙組発足と同時に宙組へ組替え
2007年『維新回天竜馬伝』『ザ・クラッシック』で退団
その後・・・激動の1年を過ごし(笑)流れ流れてライターやってます。
ブログもぼちぼち・・・
「右印良品」